情報革新と薬剤師の業務

ゼンメルワイスの悲劇とドン・バーウィックの運動

オーストリアの医師イグナッツ・ゼンメルワイスは産褥熱が感染することを突き止め、それによる死亡率は患者を診る前に手洗いを徹底することで大きく低下すると結論付けた。
しかし、当時の同僚には理解を得られなかった。
これは医師がこまでのやり方を変えることにどれほどの抵抗を示すかを表している。

小児科医で医療改善研究所所長であるドン・バーウィックは、1年半で10万人の命を救うという計画「10万人の命」キャンペーンを行った。その中で彼は統計学的手段を用いて、病院側に基本的な手続きを変えることを要求した。*1
また、航空業界を引き合いに出し、「医師の裁量を減らすほうが患者の安全は改善される」という独自の主張を繰り広げた。*2

思い込みからの脱却

医師の治療方針は昔からの思い込みによるものがいまだに多い。EBMという言葉が独り歩きしてしまっているかのように、昔ながらのやり方を捨てれないもの、新しいやり方を知らないものが非常に多く、本当に「根拠に基づく医療」と言えるのは、いまだにごく一部だけである。

古い世代は統計学自体を学んだことがなく、若い世代も医療雑務に追われて十分な勉強ができていない。また、情報技術の進歩により、統計学的論文等は溢れ過ぎ、とても個人が扱えるレベルではなくなってきているのも一因である。

しかし、この状況を打破するためには、インターネットなどを駆使して積極的に情報を取り入れるしかないのであり、現に若い医師は病気の主要な特徴をググって診断することもあるという。

『 イザベル 』の登場

株式仲買人ジェイソン・モードと集中治療医ジョセフ・ブリットが開発した診療決定支援ソフト『イザベル』には11,000種類以上の病気を多数の臨床結果や実験室での結果、患者の病歴、個別症状と関連付ける。

『イザベル』は一つの診断に絞ることはなく、見込み確率で順位をつけることもしない。ただ、「以下の可能性を考えましたか?」というページを表示してくれる。これにより原因を11,000種類以上から30の病気に絞るのだから、これは素晴らしい進歩である。

さらに電子カルテの普及により、昔では考えられなかったネットワークが容易に構築できており、ここに『イザベル』が連動することでさらに実践的なデータベースを基にした診断支援が可能となるだろう。


今後の医療従事者の役割は?

と、ここまでが『その数学が戦略を決める:第4章』の概略です。

最後の方は若干未来予測的な話になりましたが、既にその兆候は現れてきているのではないでしょうか。患者も新入社員もちょっとググれば勉強していない薬剤師よりも高度な知識を簡単に入手できる時代です。

『イザベル』と電子カルテのようにデータベースを駆使してある程度の診断ができれば、ベテラン薬剤師も新人も変わらないことになるのでしょうか?
さらに『イザベル』みたいなソフトが一般向けにも普及すれば、薬剤師の服薬指導はもういらないのでしょうか?

選択と決断、そして責任

診断の全てを、治療の選択肢の全てを自分で調べて決める時代が来るでしょうか?

これについては『ニューヨーカー』誌の寄稿者で医師のアトゥール・ガワンデが興味深いことを言ってます。

患者は多くの場合、与えられた自由を欲しがらない。ようするに、どうしますかと訊かれるのはいいのだが、実際に決める段になると、おまかせしますといいたくなる。

( なぜ選ぶたびに後悔するのか p.42 )


つまり、選択肢が多いこと*3はパラドクスも招く結果となり、またその状況で選択をするということは患者にとって決して幸福なことではないでしょう。
今後、情報技術の発達により、患者と新人とベテランの間の知識の差はどんどんなくなっていくでしょう。*4そこで最終的に残るのは選択した治療や、服薬指導の内容に対する責任感だと思います。情報技術の発達に影響されない医療従事者としてのプライドと責任をしっかりと自分の中に確立することが大事でしょう。

ゼンメルワイスの時代の医師のように頑なに変化を拒んでいては未来はないのかもしれません。


【 参考図書 】

絶対計算に関する本。
医療の世界でもEBMなど統計学的思考が必要とされてますので他人事ではないです。

その数学が戦略を決める

その数学が戦略を決める


選択のパラドクスから行動経済学まで幅広いテーマを易しく解説してくれていてとても読みやすいです。

なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴

なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴

*1:患者の口内環境を清潔に保つことで感染率を低下できることや、系統的な手洗いで中心静脈カテーテルからの感染が大幅に減ること。

*2:航空業界では機長や添乗員の裁量のきく部分がかなり少なくなっている。

*3:『イザベル』の診断支援は病因を30までしか絞り込めず、googleの検索結果に至っては遥かに莫大な数になる。

*4:まさに羽生さんの高速道路理論。